公社の歩み

「横浜の都市づくりの将来計画の構想」(六大事業)発表
住宅建設計画法、地方住宅供給公社法制定

時代背景

昭和20年代後期における日本では、戦災による住宅の焼失により420万戸にものぼる住宅が不足していました。大規模な住宅供給と、建物・都市の不燃化が最重要課題となり、建築基準法や住宅金融公庫法など住宅に関する法律が次々と整備されました。

昭和30年になると朝鮮特需を契機とした高度経済成長により、地方から都市部への人口流入が起こります。日本住宅公団により住宅の供給は進められましたが、東京のベッドタウンとして人口増加・世帯の細分化の進む横浜では依然と住宅不足が続いており、また地価の高騰により中堅勤労者が持家を取得するのは困難な状況にありました。

住宅が不足する一方で、人口急増によるゴミ・公害問題や、無秩序な乱開発による郊外のスプロール化など、高度経済成長の弊害ともいえる問題が顕在化していました。

そのような中、昭和40年に住宅政策の方向性を示す住宅建設計画法と共に、地方住宅供給公社法が制定されます。昭和41年12月1日、横浜市住宅供給公社は、横浜市の住宅施策実行の担い手として設立されました。

公社が設立されてからの5年は、年間約10万人ペースという横浜市の人口が最も急増した時期でありました。市民への住宅供給という使命を果たすため、公社は昭和50年までに約5800戸の分譲住宅を供給しました。

中でも公社特有の積立分譲制度は、公社に対してお金の積み立てを行うことで計画的に分譲住宅を購入できる制度であり、勤労者の持家取得の推進に大きく貢献しました。

時代背景

第一次オイルショックにより高度経済成長が終わりを告げ、昭和50年代に入ると急激な人口の増加は落ち着きを見せます。

50年代半ばには世帯数を上回る住宅数の増加がみられ、ひとまずの住宅不足は解消されましたが、市内の最低居住水準未満の世帯が15.5%(136,880世帯)を記録するなど、住宅の質の向上が次なる課題として挙がりました。

公社は昭和56年~58年にかけて、造成初期の金沢シーサイドタウンや港北ニュータウンに分譲住宅を供給するも、市場価格の下落から大量の完成在庫を抱えます。

存続の危機を乗り越えるべく、公社は急遽「住宅分譲推進室」を発足させ、従来にはなかった土日の窓口対応や、家具付きモデルルームの販売、頭金後払い制度の導入など積極的な販促活動を行った結果、早期の対応が功を奏し、景気回復の追い風も受け昭和61年には全住戸を完売することが出来ました。

公社はその後、設立当初の公社法の使命である「住宅の量的充足」から、居住水準等質の向上を目指した「住宅の質的充足」へ、時代のニーズに合わせ役割を変化させていきました。

時代背景

昭和60年のプラザ合意後に生じた円高不況を経て、日本経済はバブル景気に突入します。急激な景気の上昇は地価の高騰をもたらし、持家の取得を断念する世帯が増加しました。また当時の総理府の国民生活白書によると、借家世帯の18.6%が購入計画を変更、その52%が購入を断念したそうです。

市民の持ち家志向に変化が見られ、比例するように賃貸住宅への需要は増加、公社もその需要に応えるべく、賃貸住宅事業という新たな分野に参画しました。当時の賃貸住宅の住戸平均が40㎡であったところ、公社は平均60~70㎡という広い住宅を供給し、賃貸住宅における居住水準の向上を図りました。

同じ頃、横浜市では公社の働きかけもあり全国に先駆け、地域特別賃貸住宅制度が制定されます。中堅所得者へ良質な賃貸住宅を廉価に供給するために家賃補助を設けるその制度は、後の特定優良賃貸住宅(ヨコハマ・りぶいん)の原型となります。公社は制度住宅の担い手として、民間の資力を活用した賃貸住宅の建設・管理を進め、広い住宅を必要とするファミリー世帯へ住戸を供給しました。

また、公社50年の歴史における大きな転換点となったのが昭和の終わりより開始された「杉田駅東口地区第一種市街地再開発事業」でした。本事業は密集市街地の解消を目的とし、都市環境の整備に合わせ住宅の供給を行う公社にとってかつてない取り組みでありました。そして、市内初の組合による再開発事業に携わる試みは、住宅が充足した時代に応じる新たな事業の一歩として、大きな意義のあるものでした。

時代背景

平成7年に発生した阪神・淡路大震災では25万棟にのぼる住宅が全半壊し、その大多数が昭和56年以前に建てられた旧耐震基準の住宅でした。

横浜市はこれを受け、横浜市防災計画における震災対策を大幅に修正。市民の住宅に対する防災意識が高まるなか、公社も更なる密集市街地の整備を推し進め、新たに建設する住宅については当時開発された「免震」や「制震」の構造技術を取り入れました。

また、地球温暖化により注目された環境問題に対しては、「自然との共生」をテーマに、家庭菜園やビオトープ、太陽光発電照明等設置した住宅を供給するなど、環境にやさしいまちづくりを推進しました。

2000年代に入ると日本は「高齢社会」と呼ばれる時代に突入し、横浜市でも高齢者人口の割合が14パーセントを超えます。

公社は従来のシニアりぶいんに加え、専用の設備を備えた高齢者向け地域優良賃貸住宅を管理・供給するなど、デフレにより長期化する景気低迷のなか、多様化する市民の居住ニーズに対応していきました。

平成7年より公社は、市の総合計画「ゆめはま2010プラン」に基づき、新杉田や東神奈川など地域拠点の整備や住宅を併設した大衆芸能専門館の整備など再開発や土地区画整理を次々と推進しました。

そうして事業を継続的に行ってきたことで、公社のまちづくりに係るノウハウは一つ一つ積み重なり次の世代へと継承されていきました。

時代背景

少子高齢化により人口減少が進行する日本では、平成18年に従来の建設戸数目標に代わる、住環境の整備・向上を目的とした住生活基本計画が制定されました。

横浜市でも現時点での想定では2019年をピークに人口減少社会へ進むにあたり、国の計画に基づいた住生活基本計画を策定。震災や地球温暖化、子育て世帯の住居不足、超高齢化社会など、市民生活を取り巻く課題への対応策を打ち出しました。

その中で公社は、環境未来都市としてのエコリノベーション事業や脱温暖化プロジェクト、政令市初の耐震診断サポート業務、子育て世帯への住宅供給(子育てりぶいん)など、市の施策実現を担い事業を推進。

また、平成18年より公社は、横浜市により設置された検討委員会の提言を受け、従来のディベロッパー的な役割から、集合団地の維持管理、まちの再生支援などソフト面での機能に重心を移した「コーディネーター型公社」への転換を行います。

公社独自の取り組みである「暮らし再生プロジェクト」では減災・防災の観点から、高経年化した団地やマンションを建て替え等ハードの検討をするだけでなく、住民の高齢化や郊外の過疎化により起こる管理組合の担い手不足など、ソフト面における課題の解決にも取り組んでいます。